『資本論』以後150年の現代と私

「資本論」でマルクスは何を明らかにしているかをつかみ、現代にどのように生かすべきかを考えます。

「科学・技術の研究を人類のためにおこなう、というのは可能なのか?」

  ー 学生時代になにをやるべきか? ー受験生とガチで語った😀

さらに考えを深めるために、私はつぎのように話したんだ

 

 私が受験したころは、君と同じように科学・技術の研究を自分は人類のためにやりたいし、科学・技術とは政治の影響とは無関係になされるはずだ、と私は思っていた。問題は科学・技術の研究結果を誰が利用するのか、が問題だ、と思っていた。だから、本来それらは人類に役立つべきものなのだから、ヒトラーとか、いまならトランプのような独裁者に利用されることを世論でストップしてゆけばよい、と。しかし、それは幻想だと気づいた。

 典型的な例を言おう。原子力の研究は、あらゆる立場の人間に共通な幸福のためになされたのだろうか。確かに研究者は主観的には、人類の幸福のために、と考えたのだろう。キュリー夫妻のように。しかし、現実的に原子力の開発とは核兵器の開発のためになされた。そして日本の人々の頭上におとされた。原子力発電とは、むしろ戦後に人々の核兵器反対の世論をかいくぐり核兵器開発や配備を進めるために「原子力の平和利用を」とアメリカ権力者がいいだしながら、進めたのだ。だから、決して〝生活のための電力源〟として始まったわけではない。

 これは現実論的なはなしだ。では、一歩、本質的な次元で考えてみよう。科学・技術の研究や開発は、それをおこなう人間がどのような立場、価値意識、イデオロギーにもとづいて認識した結果なのか、これに規定されるのである。人間が対象を認識した結果、つかんだ法則性が科学の法則である。また、科学の法則(客観的法則性を法則として体系化したもの)を人間が実践に意識的に適用することが技術である。この科学は自然科学(認識対象が自然である場合)であれ、社会科学(認識対象が人間社会である場合)であれ、科学する者の立場、価値意識、イデオロギーに規定されるのである。この人間の立場、価値意識、イデオロギーは、その人間がどのような社会的諸関係の担い手であるのかにもとづく。私たちの生きている社会とは資本主義社会である。資本主義という歴史的な形態をとった生産様式と生産諸関係だ、これと無関係に人類のための研究などというものにはならないのである。私たちは自分自身が現に生きているこの日本の資本主義社会の担い手である。まだ自分は学生だから、直接的に資本家でも労働者でもないかもしれない。しかし、大学にはいれば、そうはいかない。だから、受験生のみんなは、自分が批判的な立場に立ち、政府や独占資本の政策にも反対しながら研究をすすめる必要があると思う。

 一つの例をだそう。大学は、独立行政法人や私立だ。この大学での研究は政府の政策にもとづき、規定されているのである。政府の文教政策にもとづき補助金を支給されながらである。また、多くの大学教授で構成されている学術会議の会員選定にたいして菅政権が任免拒否をした。これはなぜか?軍事研究に反対するという声明を学術会議が出しており、大学の研究に影響力を持つ学術会議を任免によって軍事研究に反対しないように政府は改悪したいからである。

 若い皆は、志を高く持って、それを大切にし、実現するために、自分の社会観、価値観を批判的に見直しながら、頑張ろう。私も社会人だけど、若いみなさんと、話していきたいとおもうのです。いま、話した事は、みんな、マルクスや『資本論』から学んだことなんだ。『資本論』を一緒に読みたいですね。春は散歩しながらもなかなかいいよ。