『資本論』以後150年の現代と私

「資本論」でマルクスは何を明らかにしているかをつかみ、現代にどのように生かすべきかを考えます。

東大卒業生があいつぎ過労自殺 なぜ?

 

大学に入学したみんなへ。在学生のみんなへ。

 

東大卒業生があいついで過労自殺している。不安になっているみんなへ。

 

想像力を働かせよう。現実を何とか変えたいと思い、なぜそれが起きているのかを、想像することが、とても大切だ。

 

東大卒業生の労働者があいついで過労自殺

 電機大手、東芝デジタルソリューションズのSE(システムエンジニア)の安部さんが2019年に過労自殺

 広告大手 電通 社員 高橋まつりさんが2019年に長時間労働パワハラで自殺

なんでこんなひどいことがくりかえされるのだろう。

本当にいたましい。20~30歳のこれから自分の夢ややりたいことをめざそうという若者なのに。こういうことが繰り返し起こっている。こんなことをなんとかしてストップしなければいけない、と思うんだ。

私は、設備管理の仕事をやっている。安倍さんや高橋さんとは職種が異なる。けれども、二人の気持ちを想像してこうではないかと理解することはできる。わたしも仕事をなげだしたくなる時があるから。会社からの指示でいつまでにやれ、やれないと、発注元に契約違反となる。待ったなしだからね。というようにいつも会社から命じられている。投げ出した方が、楽だよなぁ、という気持ちにフッとなるときがある。やばい。と我に返るけど。

 東大を出ても、というか、東大をでているから、システム開発の責任者になるような位置にあったと思う。

 なぜ、企業は労働者を追い詰めるのか?容赦がないのか?労働者は拒否できないのか?恐ろしいことに、このようにして業務を非人間的に強いるのが、資本主義なのだ。資本主義の生産とは利潤追求を目的にしている。働き手は資本の担い手であり、モノと化しているのである。こういうことを「資本論」でマルクスは怒りをこめて明らかにしている。このことの原因、根拠はなにか、と想像しよう。そして、この現実を変えよう。

変えることができると私はおもう。「資本論」でマルクスはそういうことを明らかにしている、と思うから。

資本論」を一緒に読みましょう。

 

「科学・技術の研究を人類のためにおこなう、というのは可能なのか?」

  ー 学生時代になにをやるべきか? ー受験生とガチで語った😀

さらに考えを深めるために、私はつぎのように話したんだ

 

 私が受験したころは、君と同じように科学・技術の研究を自分は人類のためにやりたいし、科学・技術とは政治の影響とは無関係になされるはずだ、と私は思っていた。問題は科学・技術の研究結果を誰が利用するのか、が問題だ、と思っていた。だから、本来それらは人類に役立つべきものなのだから、ヒトラーとか、いまならトランプのような独裁者に利用されることを世論でストップしてゆけばよい、と。しかし、それは幻想だと気づいた。

 典型的な例を言おう。原子力の研究は、あらゆる立場の人間に共通な幸福のためになされたのだろうか。確かに研究者は主観的には、人類の幸福のために、と考えたのだろう。キュリー夫妻のように。しかし、現実的に原子力の開発とは核兵器の開発のためになされた。そして日本の人々の頭上におとされた。原子力発電とは、むしろ戦後に人々の核兵器反対の世論をかいくぐり核兵器開発や配備を進めるために「原子力の平和利用を」とアメリカ権力者がいいだしながら、進めたのだ。だから、決して〝生活のための電力源〟として始まったわけではない。

 これは現実論的なはなしだ。では、一歩、本質的な次元で考えてみよう。科学・技術の研究や開発は、それをおこなう人間がどのような立場、価値意識、イデオロギーにもとづいて認識した結果なのか、これに規定されるのである。人間が対象を認識した結果、つかんだ法則性が科学の法則である。また、科学の法則(客観的法則性を法則として体系化したもの)を人間が実践に意識的に適用することが技術である。この科学は自然科学(認識対象が自然である場合)であれ、社会科学(認識対象が人間社会である場合)であれ、科学する者の立場、価値意識、イデオロギーに規定されるのである。この人間の立場、価値意識、イデオロギーは、その人間がどのような社会的諸関係の担い手であるのかにもとづく。私たちの生きている社会とは資本主義社会である。資本主義という歴史的な形態をとった生産様式と生産諸関係だ、これと無関係に人類のための研究などというものにはならないのである。私たちは自分自身が現に生きているこの日本の資本主義社会の担い手である。まだ自分は学生だから、直接的に資本家でも労働者でもないかもしれない。しかし、大学にはいれば、そうはいかない。だから、受験生のみんなは、自分が批判的な立場に立ち、政府や独占資本の政策にも反対しながら研究をすすめる必要があると思う。

 一つの例をだそう。大学は、独立行政法人や私立だ。この大学での研究は政府の政策にもとづき、規定されているのである。政府の文教政策にもとづき補助金を支給されながらである。また、多くの大学教授で構成されている学術会議の会員選定にたいして菅政権が任免拒否をした。これはなぜか?軍事研究に反対するという声明を学術会議が出しており、大学の研究に影響力を持つ学術会議を任免によって軍事研究に反対しないように政府は改悪したいからである。

 若い皆は、志を高く持って、それを大切にし、実現するために、自分の社会観、価値観を批判的に見直しながら、頑張ろう。私も社会人だけど、若いみなさんと、話していきたいとおもうのです。いま、話した事は、みんな、マルクスや『資本論』から学んだことなんだ。『資本論』を一緒に読みたいですね。春は散歩しながらもなかなかいいよ。

僕は人類のために科学・技術の研究をやりたいんだ😺

 

―「再生可能エネルギーの研究を大学でやりたいけど、原発再稼働が次々と進められていく」と悩む受験生―

 

   先日、私は表題のような願いと悩みをもった受験生と話した。今から10年前の東日本大震災福島原発が爆発し、現地の住民や日本のすべての人々が被ばくの恐怖に襲われた。これをきっかけに、原子力発電に頼らないエネルギーを開発したい、とこころざすようになったと彼は言っていた。私は、この受験生が熱心に輝くような表情で話すのをみて、心を打たれた。だからこそというのか、この受験生がすぐにつぎのように語るのをみて、複雑な気持ちになった。つまり彼はこう言ったのである。(再生可能エネルギー:太陽光、風力、など太陽・地球物理学的・生物学的な源に由来し、利用する以上の速度で自然界によって補充されるエネルギー、と呼ばれる)

「政府はどんどん原発の再稼働を決定しているじゃないですか。ぼくがいくら再生可能エネルギーの開発をしたいと思っても、現実は悪い方向に進んでいってしまう。すごく、自分は無力だな~と感じるんですよ。でも、人間のために役立つことを研究したいんですよね」

 本当に彼の言うとおりだ。私は中年になったので、かれのように今から新たな夢と希望を抱いて将来をめざす、というのは難しい。でも、若い彼のような受験生、学生、浪人生が、よりよく社会を変え、社会に役立つような研究や行動をしたいということに、とても共感した。何か一緒に話していきたいと思った。それで、かれの悩みにたいして、私は次のように答えた。

 「そうだね。君の気持ちはよくわかるし正しいと思う。人々が原発を廃止すべきだ、という意見を政府が無視し強引に再稼働を進めていることは間違っている。だから、君の考えは正しいし、志を強く持ってほしい。しかし、君の志は、ただ、研究を進めるだけでは実現できないんじゃないかとおもう。研究すると同時に、その研究を真に社会のためになるようにするためには、現に今の政府がやっているこの人々の意志に反する政治に反対すること。これを同時に行うことが必要だと思う。人々の意志に反する政治を政府がやっている、とわたしは言った。どういうことかといえば。今の政府、菅政権にせよ、前安倍政権にせよ、誰の利害にもとづき、誰の利害を代表して、政治をおこなっているか、と分析するべきだといいたいのです。一見すると、彼らは、あたかも私たちすべての人々のために政治をし、政策をつくっているかのように見せかけている。しかし、それは幻想である。やはり日本の大企業、社会科学的に言えば独占資本の利害を実現するためにやっているのではないか。かれらを資本家階級と呼ぶことができる。独占資本が生産を実現するための安定的なエネルギーを確保し、かつ、日本政府として核兵器開発能力を確保しつづけるために、原発の再稼働をいくら人々の反対があっても強行しているのだ、とおもう。こういうのをみて私は、階級的な利害にもとづいてエネルギー政策は決定され遂行されている、とかんがえている。」

次回のブログのテーマ

「科学・技術の研究を人類のためにおこなう、というのは可能なのか?」を書きました。是非読んでください。

100de名著カール・マルクス資本論」で〝賃金上げを求めるより時短が大事〟だって! 俺たちの低賃金がどんなもんだか知っているのか? 😠  

ーー斎藤が春闘開始を前に賃上げ闘争を否定

 

 まったく驚いた。露骨にもほどがある。NHK Eテレでちょうど一月の春闘開始直前のタイミングで「賃金上げるより時短を求めるのが大事です」と言うとは驚いた。幸平はネット上で、番組直後に言い訳がましく言っている。「時短が大切だってことを言ったけど、番組では説明がわかりにくかったかもしれないよね。テキストを読んでもらえれば、私の言いたいことがよくわかると思います」だって。斎藤がそう言うなら、というので、俺はテキストを読んだよ。こう書いてある。少し長いけど、引用しよう。

 「賃上げされたとしても、長時間労働が解消されなければ意味がない、ということです。資本家が賃上げ要求を飲めば【飲んでないだろ!】たしかに搾取は緩和されるでしょう。けれども、資本の論理に包摂された資本主義社会の労働者は、「では、我々は頑張って働きます!」ということになる。これは、むしろ企業にとって都合のいい展開なのです。賃金を少しばかり上げて、その代わりに長時間労働もいとわず〝自発的に〟頑張ってくれるならば、剰余価値――つまり資本家のもうけは、かえって増えるかもしれないからです。

 資本家の狙いは、労働力という「富」を「商品」として閉じ込めておくこと。「商品」に閉じ込めておくというのは、自由な時間を奪うということです。」だから、「商品」に閉じ込められていることから自由になれる時間を労働者は資本家から求めよう、それが〝労働時間の短縮〟というわけなのである。

 斎藤がこんなこと言っているよ、と、私の妻に話した。妻は「斎藤さんってお金困ってないんだね」って怒っていた。コロナ感染を理由にして政府がいま企業に時短を要請し、その他方で、営業時間の短縮に応じた企業にはたった6万円(上限)/日を支給するなんてやってる。バイトで生活費を得ている学生は労働時間を短縮され、賃金をけずりとられ、さらには時短どころかクビにされて、生活費の工面も難しくなり、大学をやめなきゃならなくなってさえいる。学生が同時に労働者として働かなければならず、しかし、労働時間を奪われ、その結果、賃金をカットさている。多くの学生の親もまた、同じような目に資本家によってあわされているってことを知らないのか、斎藤准教授は。いや知らないとは言わせない。

 そもそも斎藤は「賃金上げるのを求めるより時短を」というような発言、要するに賃金を上げる闘いを否定するような発言をしたのはこれが初めてなんじゃないかと思う。なぜ、いま斎藤は露骨な賃上げ闘争否定の主張をし始めたのか?彼は労働者の立場にたっているかのようにふるまっている。なによりマルクスの「資本論」を解説しているのだから。しかし、学生や労働者が「資本論」から自分たちの措かれた状況を変えるための理論や哲学を学ぼうとしていることにたいして、実のところ彼は巧みな歪曲をおこなっているのである。学生や若い労働者は斎藤の資本論の歪曲を見抜くのでなければいけないと思う。一体、なぜ、彼はこのようなことを言い始めたのか?

 この番組が新年早々から始まり、番組がおわった翌日の1月26日に春闘がスタートした。「労使フォーラム」で経団連中西会長と連合の神津会長がリモート会談、とニュースが流れた。このことが背景であるのはまちがいない。だから斎藤も何か弁解がましく、「番組ではうまくしゃべることができなかったから、テキストを読んでほしい」、なんて言ったんだ。

 これは許せない。

 この「労使フォーラム」は、今年の春闘で「労使交渉」にどういう指針で企業経営者は取り組むべきか、を経団連として確認する場である。これに連合の神津会長が参加し講演している。こういう労使の協議を「春闘」と称しているのだが。この場で中西会長はコロナ感染の影響によって「企業の業績は悪化している」、だから「一律の賃上げは現実的ではない」と言い放っている。要するに賃上げはしないとの宣言である。中西の腹の中はこうだ。企業経営者はいま「脱炭素の産業構造への転換」のために必死である。研究開発のための資金を投下しなければならない。賃上げに応じるための資金はない。むしろ石油、石炭、液化天然ガスなど、従来のエネルギー関連産業は事業を閉鎖したり早々に工場やパイプライン、輸送手段、などの生産設備の廃棄や労働者の大量解雇をやらなければならないのだ。こういうことを焦りながら考えているのである。

 こうした春闘開始の前日というタイミングにおいて、独占資本のこうした腹を重々承知している連合の労働貴族たちがあたかも賃金引上げをもとめているという姿勢を表向きは示している。しかし、おそらくはNHKの経営陣と番組作成のための打ち合わせにおいても斎藤は賃上げに水をさすことを「資本論」の解釈でもって発言できないかと遠回しに要請されたに違いないのである。「賃金上げるのは良くない」とは言わないでもよい、賃金あげるよりももっと必要な労働者の要求もあるというようなトーンならできないか、というように。あなたのコモン思想を存分に宣伝してもらいたいから言っているのだ、とかこういう番組のプロデューサーというのは実に狡猾だから。だから、斎藤はネット上で、「番組ではうまく説明できてないから、テキストを読んでほしい」などと弁解しているのだ。語るに落ちる、というものである。

 しかし、この番組ではじめて「資本論」を学ぼうとする学生や受験生などがほとんどだろう。斎藤は「資本論」を研究する学者で、有名な学術賞もとった、などという肩書を披歴している。そういう人間がマルクスの主張だと称して賃金闘争の否定をした。これは、「資本論」のマルクスの思想、現代の格差社会を変革するための生きた思想を葬り去るための言説を垂れ流そうとするものではないか。これをのりこえ若者は現在の格差の拡大、解雇、環境破壊、こうした矛盾をはらむ資本主義社会を変革するために「資本論」の理論を適用しよう。

 

 

 

 

100de名著カール・マルクス資本論」で〝賃金上げを求めるより時短が大事〟だって! 俺たちの低賃金がどんなもんだか知っているのか? 😠  

ーー斎藤が春闘開始を前に賃上げ闘争を否定

 

 まったく驚いた。露骨にもほどがある。NHK Eテレでちょうど一月の春闘開始直前のタイミングで「賃金上げるより時短を求めるのが大事です」と言うとは驚いた。幸平はネット上で、番組直後に言い訳がましく言っている。「時短が大切だってことを言ったけど、番組では説明がわかりにくかったかもしれないよね。テキストを読んでもらえれば、私の言いたいことがよくわかると思います」だって。斎藤がそう言うなら、というので、俺はテキストを読んだよ。こう書いてある。少し長いけど、引用しよう。

 「賃上げされたとしても、長時間労働が解消されなければ意味がない、ということです。資本家が賃上げ要求を飲めば【飲んでないだろ!】たしかに搾取は緩和されるでしょう。けれども、資本の論理に包摂された資本主義社会の労働者は、「では、我々は頑張って働きます!」ということになる。これは、むしろ企業にとって都合のいい展開なのです。賃金を少しばかり上げて、その代わりに長時間労働もいとわず〝自発的に〟頑張ってくれるならば、剰余価値――つまり資本家のもうけは、かえって増えるかもしれないからです。

 資本家の狙いは、労働力という「富」を「商品」として閉じ込めておくこと。「商品」に閉じ込めておくというのは、自由な時間を奪うということです。」だから、「商品」に閉じ込められていることから自由になれる時間を労働者は資本家から求めよう、それが〝労働時間の短縮〟というわけなのである。

 斎藤がこんなこと言っているよ、と、私の妻に話した。妻は「斎藤さんってお金困ってないんだね」って怒っていた。コロナ感染を理由にして政府がいま企業に時短を要請し、その他方で、営業時間の短縮に応じた企業にはたった6万円(上限)/日を支給するなんてやってる。バイトで生活費を得ている学生は労働時間を短縮され、賃金をけずりとられ、さらには時短どころかクビにされて、生活費の工面も難しくなり、大学をやめなきゃならなくなってさえいる。学生が同時に労働者として働かなければならず、しかし、労働時間を奪われ、その結果、賃金をカットさている。多くの学生の親もまた、同じような目に資本家によってあわされているってことを知らないのか、斎藤准教授は。いや知らないとは言わせない。

 そもそも斎藤は「賃金上げるのを求めるより時短を」というような発言、要するに賃金を上げる闘いを否定するような発言をしたのはこれが初めてなんじゃないかと思う。なぜ、いま斎藤は露骨な賃上げ闘争否定の主張をし始めたのか?彼は労働者の立場にたっているかのようにふるまっている。なによりマルクスの「資本論」を解説しているのだから。しかし、学生や労働者が「資本論」から自分たちの措かれた状況を変えるための理論や哲学を学ぼうとしていることにたいして、実のところ彼は巧みな歪曲をおこなっているのである。学生や若い労働者は斎藤の資本論の歪曲を見抜くのでなければいけないと思う。一体、なぜ、彼はこのようなことを言い始めたのか?

 この番組が新年早々から始まり、番組がおわった翌日の1月26日に春闘がスタートした。「労使フォーラム」で経団連中西会長と連合の神津会長がリモート会談、とニュースが流れた。このことが背景であるのはまちがいない。だから斎藤も何か弁解がましく、「番組ではうまくしゃべることができなかったから、テキストを読んでほしい」、なんて言ったんだ。

 これは許せない。

 この「労使フォーラム」は、今年の春闘で「労使交渉」にどういう指針で企業経営者は取り組むべきか、を経団連として確認する場である。これに連合の神津会長が参加し講演している。こういう労使の協議を「春闘」と称しているのだが。この場で中西会長はコロナ感染の影響によって「企業の業績は悪化している」、だから「一律の賃上げは現実的ではない」と言い放っている。要するに賃上げはしないとの宣言である。中西の腹の中はこうだ。企業経営者はいま「脱炭素の産業構造への転換」のために必死である。研究開発のための資金を投下しなければならない。賃上げに応じるための資金はない。むしろ石油、石炭、液化天然ガスなど、従来のエネルギー関連産業は事業を閉鎖したり早々に工場やパイプライン、輸送手段、などの生産設備の廃棄や労働者の大量解雇をやらなければならないのだ。こういうことを焦りながら考えているのである。

 こうした春闘開始の前日というタイミングにおいて、独占資本のこうした腹を重々承知している連合の労働貴族たちがあたかも賃金引上げをもとめているという姿勢を表向きは示している。しかし、おそらくはNHKの経営陣と番組作成のための打ち合わせにおいても斎藤は賃上げに水をさすことを「資本論」の解釈でもって発言できないかと遠回しに要請されたに違いないのである。「賃金上げるのは良くない」とは言わないでもよい、賃金あげるよりももっと必要な労働者の要求もあるというようなトーンならできないか、というように。あなたのコモン思想を存分に宣伝してもらいたいから言っているのだ、とかこういう番組のプロデューサーというのは実に狡猾だから。だから、斎藤はネット上で、「番組ではうまく説明できてないから、テキストを読んでほしい」などと弁解しているのだ。語るに落ちる、というものである。

 しかし、この番組ではじめて「資本論」を学ぼうとする学生や受験生などがほとんどだろう。斎藤は「資本論」を研究する学者で、有名な学術賞もとった、などという肩書を披歴している。そういう人間がマルクスの主張だと称して賃金闘争の否定をした。これは、「資本論」のマルクスの思想、現代の格差社会を変革するための生きた思想を葬り去るための言説を垂れ流そうとするものではないか。これをのりこえ若者は現在の格差の拡大、解雇、環境破壊、こうした矛盾をはらむ資本主義社会を変革するために「資本論」の理論を適用しよう。

 

 

 

 

斎藤幸平著「大洪水のまえに」(ドイッチャー賞受賞)を読んだ!

―『資本論』やマルクスの学び方の〝悪い見本〟だよ、これは― 😟  

 

 100de名著「資本論」をみて、これはヒドイなぁ~とおもった。幸平の一番有名な本の「大洪水の前に」というのを、高いけど買ってよんだ。最初に思ったことは、斎藤はほんとに『資本論』に学ぼうとおもってんのかな。マルクスから何か学ぼうと思ってねぇ~な、幸平は、と思った。それから、幸平はなんか、学者として、どう生き残っていくか、というか、名を馳せるか、食っていくか、というんで、学会や学問の流行というか、現在の政治的な影響をうけつつ学会ではどういう潮流が認められやすいのかというやつ、つまり空気を読むのがすげぇ~うまいやつだなきっと、とおもったね。なんでそういうかっていうと。幸平は、欧州に留学してそこでこの本を書いて発表したんだよな。欧州は、グレタさんが頑張っているように、とにかく、地球温暖化に反対するって人々が反対の声をあげている。そもそも欧州はずっと何十年も前から環境破壊に反対する世論がとても大きい。「緑の党」が政権与党にはいるぐらいの国もある。考えてみると、そもそも大きな発端になったのは、1986年4月26日におこった忘れもしないチェルノブイリ原発爆発事故だよね。だから、ヨーロッパで社会科学系の学者が研究をするときには、この世論の風向きにあわせないと意味がないとなっているんだろう。それにもっと伝統的な歴史的問題としてはソ連スターリン主義の影響だよね。社会主義へのあこがれと、それの裏面で「社会主義国ソ連というのが失望するものであったことからする、反共産主義の世論も大きい。しかし、マルクスは絶大な尊敬を持たれていることも確か。というのは、イギリスだったか、ヨーロッパだったか忘れたけど。世論調査で歴史上の最も偉大な人物は誰だと思うか?というのがあった。すると、一位が圧倒的にマルクスで、ずっと水をあけられたうえで二位がアインシュタインだったよね。この調査、結構有名だから、みんな知ってるんじゃないかな。日本人の俺としては、ちょっと驚き。だって、確かに『資本論』はすごいと思うし、尊敬している。けれど、ソ連が崩壊し、「社会主義の実験はおわった」、とか。「共産主義は終焉した」とか、ユートピアだ、とかと、さんざん悪宣伝がされただろ。だから、マルクスが圧倒的に一番だ、というのは、やっぱりびっくりだったね。みんなはどう?こういうヨーロッパの学会で幸平がマルクスと環境破壊反対、つまりエコロジーを結び付けて、実はマルクスエコロジー思想だったんだ、と新解釈をすれば、これはうけるよね。そういうことを空気よんで、ちょっと、独自の解釈をやれば、学者として認められるんじゃないか、って姑息に読んだんだって思うね。幸平はそういうセンスが鋭そうな感じが、番組を見て、俺はすごいしたよね。

  まあ、幸平が「大洪水の前に」って本を書いたのは、なぜ?というのを、喋ってきたけど。俺が何で、この本を読んでそんな風におもうのかっていうのを、言わないとまずいよね。ここまでしゃべったことは、なんていうか、まあ斎藤幸平がなんで「大洪水の前に」っていう本にかいてあるような解釈、つまりマルクスエコロジーの元祖に見立てるような解釈をしたんだろうか、その斎藤の思惑をヨーロッパで発表したというあたりのことを、背景との関係でとらえかえしてみた、というわけだけど。他方で俺がそんな風に幸平の思惑をとらえた理由を、「大洪水の前に」で書かれている主張というかマルクスの解釈の中身との関係で、話そうと思う。

 一言でいうと、このコラムの表題に書いたけど、マルクスや『資本論』を学ぼうとするなら、一番してはいけない悪い見本だって感じたからだよ。というのも、あれを読むと、なんでこういう主張をしたいやつがマルクスの解釈をしようとするの?斎藤がいうような主張、つまり、自然と人間が一体となって農耕するのが和気あいあいで人間的だ、っていうなら、マルクスにこだわる必要なんてないのにね。エコロジーを主張したいってことと、土地と一体の存在だった農奴のときには地球は人間と循環をうまくやっていたんだ!っていうのが幸平の思想みたいだけど。それなら、マルクスや『資本論』がどうのこうのって無理な解釈をするべきじゃないし、そういう主張をそれとして学者としてやっていればいいじゃないの、と思うんだけどね。けれど、幸平は、これは僕の独自のマルクス解釈なんだ、ってなんというか、偉い顔したがるんだよな。俺にいわせれば、マルクス主義や『資本論』にコバンザメのように、押しかけてくっついて、自分を立派に見せようとするなよ、っていやな感じがするんだよね。やっぱり、マルクスや「資本論」ってのは、資本主義社会で学費ローンを組まないと学問さえできない状況に追い込まれている学生や日々働いている労働者がブラックな状況を変えるためによまなきゃいかんと思う。長時間、夜勤、パワハラ、低賃金、というように絶望的な生き方しか選択の余地がないっていうそんな俺たち労働者が団結して資本家階級をうちたおすために学ぶんじゃないかって思う。俺たちが共同社会をつくり生産が同時に所有であるという無階級社会をつくるために学ぶんじゃないかって思う。そういう変革の思想を学ぶべきだ、と思うんだよな。

本の中身にいこうね😉

 

「大洪水の前に」って本、よんだよ。この本は最初の50頁ぐらいをよめば、それ以上読む必要ないよね。というか、その最初のところに斎藤が独自に解釈している中身の一番言いたいことが出てくるからね。そんで、その解釈がマルクスと無関係だってことだよ。無関係というか、マルクスが主張していることの解釈としてはまちがいだよ、ってことなんだ。

 まず、この本で斎藤が主張していることのなかで本人がもっとも力を入れていることはつぎのことなんだ。二つに絞れると思う。「第一章 労働の疎外から自然の疎外へ」で斎藤がのべているところだ。

【一つ目】 

「疎外された労働」(経済学=哲学草稿)の叙述は循環論法となっている。なぜなら、マルクスの次の叙述についてのマルクス自身の展開が明確に回答を述べていないからだ、というマルクス批判論がかつてからあると斎藤は紹介している。

まず、マルクスの言っていることから述べると。「いまわれわれが問うのは、どのようにして人間はその労働を外化し、疎外するようになるのかということである。どのような形でこの疎外は人間的発展の本質のうちの根拠をもっているのか?」とマルクスは問いを発している。この「どのようにして人間はその労働を疎外するようになるのか、」というマルクスの問いの意味は、労働が疎外されるようになる歴史的起源は何か、という意味だ。しかし、その起源とはなにか、ということをマルクスはここで言っていない。この点にかんして、マルクスを非難するものが「堂々巡りだ」「循環論法だ、」と非難してきたのだという。斎藤はこれにたいしてその批判はマルクスをとらえ損なっている、と批判している。つまり、『経済学=哲学草稿』の第一草稿の前半部分の「地代」を論じた箇所で「マルクスは資本主義的所有を封建的占有と比較している。そこでは、土地の完全な商品化を資本主義的関係の完成として描いた後に、なぜ土地の商品化が疎外された労働の形成にとって決定なのかが説明されている」というのである。この斎藤の指摘は正しい、と私は思う。

 マルクスは「土地所有、つまり私有財産の根源が、私有財産の運動の中に引きづりこまれて商品となること、所有者の支配が私有財産の、資本の純粋な支配として、すべての色合いを脱してあらわあれること・・・人間と同じく土地も掛値売りの価値にまで転落すること、こうした事態がおこらざるをえないのだ」と述べているからだ。これが、疎外された労働の展開にとっては、それに歴史的な淵源にあたるものとして地代の分析として論じられている、と捉えかえすことができる、と私は考えるからだ。ここは斎藤はなるほど、よく考えて書いているとおもう。ところが、だ。

 【二つ目】 ところが、つぎのところからが全く無茶苦茶な解釈なんだよ。

 斎藤は私的所有によって土地=自然が人間からはく奪されていなければ、それは人間と自然とが一体なのであり、和気あいあいとした農耕がなされている、と肯定的に原理のようにとらえるようなんだ。

「人格性の否定の結果、農奴は生産・再生産の客観的諸条件との統一を依然として維持していたのであり、そのために生存も保証されていたのである。」「この点こそが疎外概念の理解にとって決定的である。封建制社会の人格的支配は、土地の疎遠な対立にもかかわらず、耕作者は依然として「和気あいあいとした側面」を有していることをマルクスが指摘していのが重要なのだ。この関係の具体的規定性は様々であるが、しかし、その根本的な一般的規定性は、土地と耕作者の統一性である。法的人格としての自立性の否定にもかかわらず、農奴や借地人には生存保証が与えられ、生産過程における自由と自律性を実現している。それゆえ、ここには資本の物象的支配の余地はない。直接的な人格的支配が資本の非人間的力が生産過程に貫徹することを妨げていたのであり、それゆえ、疎外も大きく抑制されていたのだ。」これが斎藤の主張だ。

 おいおい。農奴と土地とが一体だからそれは「生産過程における自由と自律性が実現している。これは疎外が大きく抑制されていた」だって? 農奴っていう人間、つまり労働主体は封建領主の所有物、生産手段にまでおとしめられているんだぜ。斎藤はとにかく、人間と自然とが一体か、一体でないか、という尺度でながめているだけで、和気あいあいとしている自由で自立的な労働が実現されてた、なんて。階級支配に置かれた生産をいいなぁって感じてる斎藤って、おかしいだろ。

 

 マルクスが「疎外された労働」論で分析しとらえ返したのはつぎのことだ。資本制商品生産における労働者が商品人間として日々絶望的な労働を強制されている。これを疎外された労働と規定し、これの過程的な構造や根拠を分析したのである。だから、労働の疎外の実体的な根拠が生産手段、つまり典型的には土地から疎外され、それゆえに労働そのものが疎外され、生産物から疎外されている、と彼は抉り出したのである。だが、斎藤は土地の資本制的所有がされていない歴史的段階では土地と農奴=人間が一体である、というように過去の事実を意味づけるわけだ。そこでは資本制的な労働の疎外がない、むしろ生活が保障され、土地からおいだされることもない。あくせくすることなく和気あいあいとした面があった、と想像している。そういう在り方は、人間が自然から疎外されていないといえるんじゃないか、というわけだ。人間の生存は保証され、「生産過程における自由と自立性を実現していた」(45頁)「疎外も大きく抑制されていた」と斎藤は肯定しているわけなんだ。「土地の耕作者が人格の否定を通じて自然の一部となることで、自由や自立性を享受する」とさえ言っている。

 封建制生産関係において農奴は土地から切り離されていない、土地という自然と一体だ、と斎藤は言う。これを「人間と自然との本質統一された」在り方で、マルクスのいう「人間と自然との物質代謝」の実現された在り方、とでも考えているみたいだ。だけども、そもそも封建制生産関係では土地だけでなく農奴という人間自体が封建領主に所有されているんだろ。人間じたいが生産手段として封建領主という支配階級に所有されているだよ。そもそも農奴という人間と土地とが封建領主という支配階級によって階級的に所有されている。階級社会において階級支配がなされているのが、これまでと現在の人間の歴史だ。この階級闘争の歴史を廃絶する。これが人類前史の終わりとなる、とマルクスは人間解放の思想を明らかにしていると俺は思う。

 斎藤はただ農耕労働をしている農奴が自然=土地と一体化していて、自然から疎外されていない、とみなして、これは人間と自然との物質代謝のあるべき姿のひとつと解釈したのかもしれないけど。けれども、斎藤は和気あいあいとした人間と自然との姿を想定し、この様子を、現在の国家独占資本主義での大量生産と大量廃棄や石油エネルギーの大量消費と温暖化による自然破壊の極致との対比で、「ああ、牧歌的で人間的だ、自然にとってもやさしいな」というように感じたのかもしれない。けれど、斎藤の考えているのは、マルクスの思想や『資本論』とは無縁な解釈だよ。無縁というか、歪曲だ!エコロジーを理論的に粉飾するためにマルクスが欧州のひとびとから偉大な存在として尊敬されていることをいいことに、主張をつまみ食いして利用しているもんじゃないかと思う。斎藤のような解釈の仕方こそが『資本論』をうけとめる場合の悪い見本なんだ。

今回は、斎藤の一番有名な本について、話しました。次からは、NHK100分de名著 『資本論』について話そうと思う。意見よせてね。

100分de名著カール・マルクス『資本論』をみた!斎藤幸平が『資本論』を歪曲!

資本論』の牙を抜くための大がかりな演出 

  時の人・斎藤幸平の活用 

ーー黙っていられないから俺はブログをはじめることにした!  斎藤幸一

 マルクスの「資本論」の牙を抜くための大がかりな演出が始まった。NHKEテレで新年早々に始まった「100分de名著『資本論』」を見て、私はそのように感じた。今、斎藤幸平(大阪市立大学)准教授はマスコミ、出版界、政党(日本共産党)の間で話題のひとだ。「気候温暖化の危機の解決策を示す俊英」「晩期マルクスの思想に危機解決策を見出した」などなど。思想家、社会運動家ホープとして持ち上げられている。さながら「幸平ブーム」のような状況だ。

 「人新生の『資本論』」(集英社新書)が発刊されたのを昨秋に私は知った。他方、12月に国会で「労働者協同組合法」が共産党をふくめて与野党一致で成立した際に、新聞紙上で斎藤氏がこの法律を労働者にとって画期的なものであり「コモン」と規定できる、とコメントしているのを見た。彼の主張を先の「人新生の『資本論』」や「大洪水の前に」を読んでおおむね私は知った。しかし、彼の主張は、マルクスが「資本論」であきらかにしている思想や社会変革の理論を完全に歪めるものだ、と思い、ハッキリ言って、憤りを覚えたのだ。けれど、今回、NHKEテレの看板番組で新年早々に幸平を呼んで「資本論」を解説する、ということを知って、私は、この動きは単に斎藤個人のマルクス歪曲というレベルの問題ではない、と確信した。ゾッとしたのだ。背後で大きなうごめきがあるに違いない。政府、独占資本家たちは、現在の日本の政治的、経済的、社会的なある種の危機的状況に直面している。それゆえに、労働者、学生、勤労者をイデオロギー的に感化しながら、〝脱炭素のエネルギー産業転換〟、つまりエポックメイキングな産業構造の転換にむけた動きを開始したのではないか、と直観した。公共放送を活用してだ。

(バイデン政権の成立とパリ協定へのアメリカの復帰表明。欧州諸国をはじめ世界最大の自動車市場である中国、カリフォルニア州などがガソリン車の新車販売を2030~2040年に禁止するとした。菅政権も国内の温暖化ガス排出を2050年までに実質ゼロとする方針をだした。)

 政府・独占資本家はこうした産業構造の転換を強行しようとするときには、過去そうであったように、若者、労働者が反対の運動にたちあがらないように、既存の支配秩序を維持するための一環として翼賛の世論をつくろうとするのである。彼らは、現在の石油エネルギー関連の産業に従事している労働者を合理化=解雇していくことを必ず画策すると推測しなければいけない。だから、労働者や学生、若者が政府に反対しないようにかれらをイデオロギー的にからめとろうと画策するわけだ。「地球温暖化を止めなきゃいけない」と一所懸命に思い行動しようとしている私達や、学費ローンで苦しんでいる学生、受験生、浪人生を、政府にたいして反対し立ち向かうことのないように、斎藤ブームで絡めとろうということを狙っているに違いない。だから、私は、この幸平ブーム(と呼ぼう)の学生、労働者、若者にとっての非常に危険な意味をあばきださないといけないと考えている。

 そこで、なにより、「100de名著『資本論』」でNHKと斎藤がおこなった〝「資本論」の骨抜き〟ともいうべき歪曲ぶりを批判したい。これから私がおこなう批判は、斎藤による「資本論」の改竄の化けの皮をはがし、本当の意味で「資本論」でマルクスが明らかにしていることをつかみ取るためのものである。いまのコロナ感染の拡大にたいして政府や資本家が私達に犠牲を強いていることを「資本論」を理論的な武器にし、なんとかして根本から変革したい、と私は思う。ツッコミよろしく。