『資本論』以後150年の現代と私

「資本論」でマルクスは何を明らかにしているかをつかみ、現代にどのように生かすべきかを考えます。

斎藤幸平著「大洪水のまえに」(ドイッチャー賞受賞)を読んだ!

―『資本論』やマルクスの学び方の〝悪い見本〟だよ、これは― 😟  

 

 100de名著「資本論」をみて、これはヒドイなぁ~とおもった。幸平の一番有名な本の「大洪水の前に」というのを、高いけど買ってよんだ。最初に思ったことは、斎藤はほんとに『資本論』に学ぼうとおもってんのかな。マルクスから何か学ぼうと思ってねぇ~な、幸平は、と思った。それから、幸平はなんか、学者として、どう生き残っていくか、というか、名を馳せるか、食っていくか、というんで、学会や学問の流行というか、現在の政治的な影響をうけつつ学会ではどういう潮流が認められやすいのかというやつ、つまり空気を読むのがすげぇ~うまいやつだなきっと、とおもったね。なんでそういうかっていうと。幸平は、欧州に留学してそこでこの本を書いて発表したんだよな。欧州は、グレタさんが頑張っているように、とにかく、地球温暖化に反対するって人々が反対の声をあげている。そもそも欧州はずっと何十年も前から環境破壊に反対する世論がとても大きい。「緑の党」が政権与党にはいるぐらいの国もある。考えてみると、そもそも大きな発端になったのは、1986年4月26日におこった忘れもしないチェルノブイリ原発爆発事故だよね。だから、ヨーロッパで社会科学系の学者が研究をするときには、この世論の風向きにあわせないと意味がないとなっているんだろう。それにもっと伝統的な歴史的問題としてはソ連スターリン主義の影響だよね。社会主義へのあこがれと、それの裏面で「社会主義国ソ連というのが失望するものであったことからする、反共産主義の世論も大きい。しかし、マルクスは絶大な尊敬を持たれていることも確か。というのは、イギリスだったか、ヨーロッパだったか忘れたけど。世論調査で歴史上の最も偉大な人物は誰だと思うか?というのがあった。すると、一位が圧倒的にマルクスで、ずっと水をあけられたうえで二位がアインシュタインだったよね。この調査、結構有名だから、みんな知ってるんじゃないかな。日本人の俺としては、ちょっと驚き。だって、確かに『資本論』はすごいと思うし、尊敬している。けれど、ソ連が崩壊し、「社会主義の実験はおわった」、とか。「共産主義は終焉した」とか、ユートピアだ、とかと、さんざん悪宣伝がされただろ。だから、マルクスが圧倒的に一番だ、というのは、やっぱりびっくりだったね。みんなはどう?こういうヨーロッパの学会で幸平がマルクスと環境破壊反対、つまりエコロジーを結び付けて、実はマルクスエコロジー思想だったんだ、と新解釈をすれば、これはうけるよね。そういうことを空気よんで、ちょっと、独自の解釈をやれば、学者として認められるんじゃないか、って姑息に読んだんだって思うね。幸平はそういうセンスが鋭そうな感じが、番組を見て、俺はすごいしたよね。

  まあ、幸平が「大洪水の前に」って本を書いたのは、なぜ?というのを、喋ってきたけど。俺が何で、この本を読んでそんな風におもうのかっていうのを、言わないとまずいよね。ここまでしゃべったことは、なんていうか、まあ斎藤幸平がなんで「大洪水の前に」っていう本にかいてあるような解釈、つまりマルクスエコロジーの元祖に見立てるような解釈をしたんだろうか、その斎藤の思惑をヨーロッパで発表したというあたりのことを、背景との関係でとらえかえしてみた、というわけだけど。他方で俺がそんな風に幸平の思惑をとらえた理由を、「大洪水の前に」で書かれている主張というかマルクスの解釈の中身との関係で、話そうと思う。

 一言でいうと、このコラムの表題に書いたけど、マルクスや『資本論』を学ぼうとするなら、一番してはいけない悪い見本だって感じたからだよ。というのも、あれを読むと、なんでこういう主張をしたいやつがマルクスの解釈をしようとするの?斎藤がいうような主張、つまり、自然と人間が一体となって農耕するのが和気あいあいで人間的だ、っていうなら、マルクスにこだわる必要なんてないのにね。エコロジーを主張したいってことと、土地と一体の存在だった農奴のときには地球は人間と循環をうまくやっていたんだ!っていうのが幸平の思想みたいだけど。それなら、マルクスや『資本論』がどうのこうのって無理な解釈をするべきじゃないし、そういう主張をそれとして学者としてやっていればいいじゃないの、と思うんだけどね。けれど、幸平は、これは僕の独自のマルクス解釈なんだ、ってなんというか、偉い顔したがるんだよな。俺にいわせれば、マルクス主義や『資本論』にコバンザメのように、押しかけてくっついて、自分を立派に見せようとするなよ、っていやな感じがするんだよね。やっぱり、マルクスや「資本論」ってのは、資本主義社会で学費ローンを組まないと学問さえできない状況に追い込まれている学生や日々働いている労働者がブラックな状況を変えるためによまなきゃいかんと思う。長時間、夜勤、パワハラ、低賃金、というように絶望的な生き方しか選択の余地がないっていうそんな俺たち労働者が団結して資本家階級をうちたおすために学ぶんじゃないかって思う。俺たちが共同社会をつくり生産が同時に所有であるという無階級社会をつくるために学ぶんじゃないかって思う。そういう変革の思想を学ぶべきだ、と思うんだよな。

本の中身にいこうね😉

 

「大洪水の前に」って本、よんだよ。この本は最初の50頁ぐらいをよめば、それ以上読む必要ないよね。というか、その最初のところに斎藤が独自に解釈している中身の一番言いたいことが出てくるからね。そんで、その解釈がマルクスと無関係だってことだよ。無関係というか、マルクスが主張していることの解釈としてはまちがいだよ、ってことなんだ。

 まず、この本で斎藤が主張していることのなかで本人がもっとも力を入れていることはつぎのことなんだ。二つに絞れると思う。「第一章 労働の疎外から自然の疎外へ」で斎藤がのべているところだ。

【一つ目】 

「疎外された労働」(経済学=哲学草稿)の叙述は循環論法となっている。なぜなら、マルクスの次の叙述についてのマルクス自身の展開が明確に回答を述べていないからだ、というマルクス批判論がかつてからあると斎藤は紹介している。

まず、マルクスの言っていることから述べると。「いまわれわれが問うのは、どのようにして人間はその労働を外化し、疎外するようになるのかということである。どのような形でこの疎外は人間的発展の本質のうちの根拠をもっているのか?」とマルクスは問いを発している。この「どのようにして人間はその労働を疎外するようになるのか、」というマルクスの問いの意味は、労働が疎外されるようになる歴史的起源は何か、という意味だ。しかし、その起源とはなにか、ということをマルクスはここで言っていない。この点にかんして、マルクスを非難するものが「堂々巡りだ」「循環論法だ、」と非難してきたのだという。斎藤はこれにたいしてその批判はマルクスをとらえ損なっている、と批判している。つまり、『経済学=哲学草稿』の第一草稿の前半部分の「地代」を論じた箇所で「マルクスは資本主義的所有を封建的占有と比較している。そこでは、土地の完全な商品化を資本主義的関係の完成として描いた後に、なぜ土地の商品化が疎外された労働の形成にとって決定なのかが説明されている」というのである。この斎藤の指摘は正しい、と私は思う。

 マルクスは「土地所有、つまり私有財産の根源が、私有財産の運動の中に引きづりこまれて商品となること、所有者の支配が私有財産の、資本の純粋な支配として、すべての色合いを脱してあらわあれること・・・人間と同じく土地も掛値売りの価値にまで転落すること、こうした事態がおこらざるをえないのだ」と述べているからだ。これが、疎外された労働の展開にとっては、それに歴史的な淵源にあたるものとして地代の分析として論じられている、と捉えかえすことができる、と私は考えるからだ。ここは斎藤はなるほど、よく考えて書いているとおもう。ところが、だ。

 【二つ目】 ところが、つぎのところからが全く無茶苦茶な解釈なんだよ。

 斎藤は私的所有によって土地=自然が人間からはく奪されていなければ、それは人間と自然とが一体なのであり、和気あいあいとした農耕がなされている、と肯定的に原理のようにとらえるようなんだ。

「人格性の否定の結果、農奴は生産・再生産の客観的諸条件との統一を依然として維持していたのであり、そのために生存も保証されていたのである。」「この点こそが疎外概念の理解にとって決定的である。封建制社会の人格的支配は、土地の疎遠な対立にもかかわらず、耕作者は依然として「和気あいあいとした側面」を有していることをマルクスが指摘していのが重要なのだ。この関係の具体的規定性は様々であるが、しかし、その根本的な一般的規定性は、土地と耕作者の統一性である。法的人格としての自立性の否定にもかかわらず、農奴や借地人には生存保証が与えられ、生産過程における自由と自律性を実現している。それゆえ、ここには資本の物象的支配の余地はない。直接的な人格的支配が資本の非人間的力が生産過程に貫徹することを妨げていたのであり、それゆえ、疎外も大きく抑制されていたのだ。」これが斎藤の主張だ。

 おいおい。農奴と土地とが一体だからそれは「生産過程における自由と自律性が実現している。これは疎外が大きく抑制されていた」だって? 農奴っていう人間、つまり労働主体は封建領主の所有物、生産手段にまでおとしめられているんだぜ。斎藤はとにかく、人間と自然とが一体か、一体でないか、という尺度でながめているだけで、和気あいあいとしている自由で自立的な労働が実現されてた、なんて。階級支配に置かれた生産をいいなぁって感じてる斎藤って、おかしいだろ。

 

 マルクスが「疎外された労働」論で分析しとらえ返したのはつぎのことだ。資本制商品生産における労働者が商品人間として日々絶望的な労働を強制されている。これを疎外された労働と規定し、これの過程的な構造や根拠を分析したのである。だから、労働の疎外の実体的な根拠が生産手段、つまり典型的には土地から疎外され、それゆえに労働そのものが疎外され、生産物から疎外されている、と彼は抉り出したのである。だが、斎藤は土地の資本制的所有がされていない歴史的段階では土地と農奴=人間が一体である、というように過去の事実を意味づけるわけだ。そこでは資本制的な労働の疎外がない、むしろ生活が保障され、土地からおいだされることもない。あくせくすることなく和気あいあいとした面があった、と想像している。そういう在り方は、人間が自然から疎外されていないといえるんじゃないか、というわけだ。人間の生存は保証され、「生産過程における自由と自立性を実現していた」(45頁)「疎外も大きく抑制されていた」と斎藤は肯定しているわけなんだ。「土地の耕作者が人格の否定を通じて自然の一部となることで、自由や自立性を享受する」とさえ言っている。

 封建制生産関係において農奴は土地から切り離されていない、土地という自然と一体だ、と斎藤は言う。これを「人間と自然との本質統一された」在り方で、マルクスのいう「人間と自然との物質代謝」の実現された在り方、とでも考えているみたいだ。だけども、そもそも封建制生産関係では土地だけでなく農奴という人間自体が封建領主に所有されているんだろ。人間じたいが生産手段として封建領主という支配階級に所有されているだよ。そもそも農奴という人間と土地とが封建領主という支配階級によって階級的に所有されている。階級社会において階級支配がなされているのが、これまでと現在の人間の歴史だ。この階級闘争の歴史を廃絶する。これが人類前史の終わりとなる、とマルクスは人間解放の思想を明らかにしていると俺は思う。

 斎藤はただ農耕労働をしている農奴が自然=土地と一体化していて、自然から疎外されていない、とみなして、これは人間と自然との物質代謝のあるべき姿のひとつと解釈したのかもしれないけど。けれども、斎藤は和気あいあいとした人間と自然との姿を想定し、この様子を、現在の国家独占資本主義での大量生産と大量廃棄や石油エネルギーの大量消費と温暖化による自然破壊の極致との対比で、「ああ、牧歌的で人間的だ、自然にとってもやさしいな」というように感じたのかもしれない。けれど、斎藤の考えているのは、マルクスの思想や『資本論』とは無縁な解釈だよ。無縁というか、歪曲だ!エコロジーを理論的に粉飾するためにマルクスが欧州のひとびとから偉大な存在として尊敬されていることをいいことに、主張をつまみ食いして利用しているもんじゃないかと思う。斎藤のような解釈の仕方こそが『資本論』をうけとめる場合の悪い見本なんだ。

今回は、斎藤の一番有名な本について、話しました。次からは、NHK100分de名著 『資本論』について話そうと思う。意見よせてね。